大化六年(650)生誕。持統天皇十年(696) に没。

 

天武天皇と宗像尼子娘との皇子。

妃は御名部皇女・但馬皇女。

子供には、御名部皇女との間に長屋王・鈴鹿王ら二人の息子がいる。

天武天皇の皇子達の中では最年長の皇子として、早くから父天皇を助けていたと思われる。

「壬申の乱」においては、大友軍に対する戦いの、総司令官を務めた。 実際に、この戦いの中での高市皇子の働きは、 大きかったと思われる。

また、彼は武人としてだけでなく、政治家としての実務能力にも優れていたらしく、父の天武天皇だけでなく、持統天皇からの信頼も厚く、太政大臣の位にまで昇っている。

正妃の御名部皇女は、叔父天智天皇の娘であり、従兄妹の関係になる。 宮中で十市皇女が死去した後、彼女の死を悼む三首の挽歌を詠んでいる。 いずれも、悲痛な響きに満ちた歌であるため、高市皇子と十市皇女は恋仲であったのではないか?という憶測がある。 おそらく、十市皇女の母の額田王が天武天皇の最初の妻であったと考えられるため、十市皇女の方が、高市皇子より何歳か年上だったのではないでしょうか ?

高市皇子が詠んでいるのは、挽歌であり、厳密に言えば恋の歌ではありませんが、内容から考えて恋の歌の中に入れても いいかと思い、このサイトでは恋の歌に加えています。

 ただし、私がこれから述べる意見は、穂積皇子・但馬皇女カップルと並んで、「万葉集」の悲劇の恋人達として注目されやすい感じがする、 「悲劇の恋人達、高市皇子と十市皇女」というイメージを抱いている方々の イメージを、壊してしまう可能性があり、そういう方々は、読まない方が良いかもしれません。それから、今から展開する高市皇子と十市皇女、 そして大友皇子と十市皇女に関する考察は、あくまで、私個人の意見、 一つの仮説としてこういう見方もあると捉えていただければと思います。

私としては、特に日頃から大友皇子と十市皇女の関係に対する見方に、 疑問を感じる所が多かったので。

 

 

 

 

高市皇子が想いを寄せていたと思われる、十市皇女は、母の身分から、第一皇女としては扱われていなかったとは思われるものの、天武天皇の長女であり、父の即位前から何かと責任ある立場だったのではと考えられます。また、当時天智天皇の後継者と目され、将来は天皇に即位する予定の、 大友皇子の妃となり、彼女は更に責任ある立場となった事でしょう。

また、大友皇子とは幼い頃から婚約していたと思われますが、皇族とはいえ、あくまでもそれ程身分が高くない五世の皇族、姫王の一人であった母の額田王では望むべくもなかった将来の皇后に自分が予定された事を、まだ実感はなかったものの、素直に母の額田王と共に喜んでいたのではないでしょうか?また、将来の皇后になるべく、相応の教育も受けるようになったと思われます。

(厳密に言うと、当時の十市皇女は母と同じく、姫王であり、

壬申の乱の後の天武二年(673)年に、皇女にされています。)

669年には、大友皇子・十市夫婦の間には、息子の葛野王も生まれます。

 

しかし、「壬申の乱」という、十市皇女にとっては父と夫との戦いという、 非常に辛い出来事であったと思われる、古代最大の内乱が勃発してしまうのです。この乱の前後の、十市皇女の動向を記している、 当時の歴史書は、ありません。

「宇治拾遺物語」には、十市皇女と思われる、大友皇子の妃が鮒の包焼に父への密書を詰めて、 近江方の情報を流していたように書かれていますが、「宇治拾遺物語」や 同様の内容のある「扶桑略記」は、後世の歴史物語や歴史書なので、 あまり信用できないと考えられます。

 

 

 

 

 

672年の七月二十七日には、夫の大友皇子が二十五歳で、山前で自害という、非業の死を遂げています。

おそらく乱終息後は、十市皇女は避難先から(母の額田王の出生地の額田郡平群郷の辺りか?)飛鳥に戻ったのでしょう。

しかし、乱終息後も、十市皇女は即位した天武天皇の娘とはいえ、 敵方の大友皇子の正妃でもあり、息子の葛野王と共に、複雑で苦しい立場に置かれていたと想像されます。

ましてや、壬申の乱の時、 夫の大友皇子が即位していた可能性も、近年主張されるようになっており、十市皇女も皇后になっていたかもしれないのなら、なおさらでしょう。

この時期頃から、十市皇女は高市皇子と恋仲になったのではとする見方もありますが、現実問題として二人の間に横たわる大きな障害を二人は乗り越えて、恋仲になる事ができたのでしょうか?

高市皇子は、紛れもなく十市皇女と葛野王にとっては、大友皇子の仇と言っていい存在、そして近江朝の遺臣達からしても、 明らかに敵方の人間でした。

 

 

 

 

 

なお、十市皇女は675年の二月十三日に、伊勢斎宮に、当時すでに草壁皇子の妃となっていたのではないかと思われる、阿閉皇女と共に参向しています。当時の斎王は、大伯皇女でした。

更に、こうして新たに二人の皇女を伊勢斎宮に派遣したのは、

壬申の乱の勝利に対しての、伊勢神宮への感謝を捧げるためではないかとする説があります。この説に従えば、十市皇女は父の天武天皇に加担したという事になります。しかし、十市皇女はこの三年後の、678年の四月七日に、宮中で急死してしまいました。

まだ、三十代前半頃の若さであったようです。

ちょうど、天武天皇が倉梯の上流に設えた斎宮に行幸しようと、

出発する直前の出来事でした。「日本書紀」の、十市皇女の死後の、 新宮の西庁の柱への落雷や、彼女の葬儀に臨席した

天武天皇の「天皇、臨して発哀したまふ(地に伏して号泣という事でしょうか?)」と記されている、大変な悲しみようなど、ただならぬ記述が 続いている事から、彼女の死は自殺であったのではないかという説もあります。

 

 

 

 

もしかすると、十市皇女は父天武天皇に対して、夫を死に追いやった事への抗議を、こうした形で表わしたのでしょうか?

天武天皇の斎宮への行幸には、当然十市皇女もこの行幸への同行が予定されていたと思われます。

かつて大友皇子の正妃であった十市皇女が、共に斎宮に行幸の一員として向かう事により、改めて自分の即位を正当化・神も支持した結果としたい、天武天皇の意図も、この行幸にはあったのではないでしょうか?

どうしても、すでに自分の第一皇女の大伯皇女を斎王として、そして更に阿閉皇女と十市皇女を伊勢斎宮に派遣、そしてついには天武天皇自身の斎宮行幸というと、改めてあの壬申の乱の勝利は、天照大神の神意を得たものであり、自分の天皇即位は神意を得た結果であるという、宣伝の目的、という図式がちらついてしまうんですよね。

 

 

 

 

また、結局十市皇女の死により神事は日を改めて行われる様子もなかった事から、この時の神事の斎王に選ばれていたのではする説もあり、それなら、なおさら、もうこれ以上父天武天皇の皇女として、壬申の乱の戦いにおける勝利と即位は、神意を得たものであるとする、 天武天皇の政治的アピールに利用されたくないと考えての彼女の自殺だったとすれば、この時の斎王としての役目を果たす事は、 なおさら彼女にとっては承服しかねる命令であった事でしょう。

ただ、すでに処女ではない十市皇女が斎王に選ばれるのか?と、この説には疑問を感じる部分もありますが。

どちらにしても、この斎宮の行幸は父天武天皇の大々的な政治的アピールであり、これ以上これに協力する事を、ついに十市皇女は自殺という 形で拒絶したのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

どうも、十市皇女の死が自殺だとすれば、高市皇子と結ばれない事を悲観しての死という、恋愛絡みの解釈では、いまひとつすっきりしないものを感じるんですよね。

だとすれば、十市皇女は壬申の乱終息後、一旦は父天武天皇を支持したのかもしれないにせよ、やはり、壬申の乱での戦いにおいて、夫大友皇子の命を奪い、即位した父天武天皇を許す事ができなかったという事になります。

当然、その中には高市皇子も含まれていた事でしょう。

十市皇女はこれ以上、夫の命を奪った「壬申の乱」での天武天皇方の勝利を、神意を得たものとして宣伝する父の政治のために、利用されたくなかったのかもしれません。

十市皇女は、父の斎宮行幸を阻止するために、自殺したのではないでしょうか? 実際に、皇女の急死という事で、この行幸は取りやめになっています。 また、これに関しては気になる事柄としては、三年前に十市皇女と阿閉皇女が伊勢斎宮に派遣された時、途中の山道で十市皇女の侍女と思われる、吹芡刀自(吹黄刀自)が詠んでいる、 次の歌です。

「万葉集」巻一 二十二 河の上の ゆつ盤群に 

草生さず 常にもがもな 常乙女にて」

 

 

意味 河上の神聖な岩群に草が生えないで、いつまでもあるように、とこしえに老いない乙女でありたいものだ

 

 

十市皇女の将来を祝福して歌った歌。

 

 

 

この歌の内容も、あたかも、三年後の十市皇女の若くしての急死を、暗示しているかのような印象を受けます。

もしかすると、この時の十市皇女は、必ずしも斎宮に使者として赴く事に対して、気持ちが浮かない、気がかりな様子が見えたのかもしれません。

侍女の吹芡刀自が敢えてこのような歌を詠まねばならない程、

当時の皇女は、深い憂愁に包まれていたのかもしれません。

 

 

 

 

こうして考えると、途中はどうであれ、十市皇女は最後は天武天皇の皇女としてよりも、大友皇子の正妃として生きたという事になりますね。また、母として息子葛野王の将来を悲観したのかもしれません。いくら、母が天武天皇の皇女であり、天武天皇の孫であるといえど、やはり、昇進は天武天皇の息子達の方が優先されるでしょうし、また葛野王は壬申の乱で敗れた、大友皇子の血を引いており、いずれにしても、昇進にはかなり不利な立場であったと考えられます。

 

 

いずれにしても、十市皇女はやはり悲劇の女性ですね。

天武天皇が十市皇女の葬儀に際して、大変な悲しみようであったというのは、ただ単に若くして急死した娘の死を悼むというだけではなく、娘を自分の斎宮行幸への同行という形で、

自分の壬申の乱での勝利を、神意を得たものとして世間に広く印象付けるための、政治的アピールに再び参加させようとした、

自分の行動に対する後悔のようなものが、含まれていたのかもしれません。

天武天皇は、おそらく、自分の娘なのだから、

彼女の夫の大友皇子を敗死させ、自分が天皇に即位した事も、最終的には受け入れてくれる、理解を示してくれると思っていたのではないでしょうか?  

「天皇」という呼称が正式に、使われるようになったのは、天武天皇の時代からと考えられており、

また斎宮の制度化を始めたのも、天武天皇からです。

また、当時の皇子・皇女達は、天皇の手足として、

使者などとして、役割を与えられ、天皇制度を支えていました。十市皇女と阿閉皇女の伊勢斎宮派遣も、その役割の一つという事なのでしょう。

また、注目される事として、

壬申の乱が終わった翌年の天武二年(673)に、

当時姫王であった、十市皇女も、「皇女」の位を与えられている事です。

 

 

 

 

 

 

これはもちろん、大海人皇子が天皇に即位したのに従い、子供達の位も相応にする必要があったという事もあるのでしょうが、やはり、これは十市皇女に天皇である自分の手足として、天武朝の体制を支えてくれる事も期待していたためでしょう。実際、天武四年(675)年に、十市皇女は阿閉皇女と共に、天武天皇の使者として伊勢斎宮 に赴いています。

しかし、彼女は天武天皇の斎宮行幸という、

まさに一大政治的行事が行なわれる直前に、

急死しました。これが自殺だったとすれば、

十市皇女は天武天皇の皇女として、体制を支える役割を果たし続ける事を拒否したという事だと考えられます。

 つまり、十市皇女の急死が、自殺だとしたら、

その理由は高市皇子との恋愛の苦悩ではなく、 

父の天武天皇に対する、デモンストレーションのようなものではないかと思われる訳です。

 

 

 

 

 

こうしてみると、彼女の死の翌年の679年の五月五日に、

いわゆる「吉野の盟約」が行われているのも、

何やら意味ありげに思えてきます。

またこの時期は、ちょうど十市皇女の死から、ほぼ一年後に当たりますし。

十市皇女が天武天皇に対する抗議として、自殺を選んだのなら、天武朝の宮廷には、当時衝撃が走り、人心は動揺した事でしょう。

天武天皇の皇女として父天武天皇に従っていたと思われた、

近江朝の象徴のような存在とも言える、壬申の乱で死んだ大友皇子の正妃であった十市皇女が、父の壬申の乱の勝利で得た天皇即位を認めない、と自分の死によって拒絶の意を表わした訳ですから。

このような宮廷内の動揺を静める目的も、当時の吉野の盟約にはあったのではないでしょうか。この盟約には、天武天皇と鵜野皇后の息子の草壁皇子の次の天皇即位を認めさせると共に、

改めて天智天皇の皇子達、つまり近江朝側の人間達の天武天皇側に対する服従を求める意図もあったのではないでしょうか。

 

 

 

 

それから、なぜか、十市皇女は「壬申の乱」の時、

夫の大友皇子のために、何か積極的な行動をする訳でもなく、壬申の乱の後も、おとなしく父天武天皇に保護されたとされがちのような気がします。

どうも、彼女に関してはこれまで、高市皇子の悲痛な挽歌からばかり、人物像を組み立て過ぎている所がないでしょうか?

確かに、高市皇子の挽歌からは、

自ずと薄幸な佳人、ただただ、皮肉な運命に翻弄された悲劇の皇女、そして高市皇子と悲恋の関係だったのではないか?という、イメージを喚起する力があるのは、認めます。

しかし、似たようなケースとしては母の額田王も、

天智・天武との愛の葛藤に翻弄された美女というイメージが、例の紫草の歌から発生しています。

しかし、こちらの方も近年の研究では、

このラブロマンスのヒロイン額田王のイメージも、

歌の生み出した幻影ではないかとする意見が出されてきており、十市皇女の場合も、高市皇子の挽歌は挽歌として、 新たに再検討が必要なのではないでしょうか

夫大友皇子との関係も、含めて。

 

 

 

 

 

まず、「壬申の乱」の間、この間の十市皇女の動向を示す同時代の記録がない事から、どうしても私達はこの時、十市皇女は心理的には父親寄りであり、

また、父と夫との戦いの間に成すすべもなく、

苦悩するしかできない、悲劇の皇女という連想をしてしまいがちです。しかし、本当にこの戦いの時、十市皇女は父親寄りだったのでしょうか?

やはり、このような事や高市皇子の挽歌から、

何となく十市皇女は天武天皇や高市皇子ら寄りであり、やはり、政略で結婚させられた夫よりも、

親子の絆の方が強かったのだと推測してしまいがちではないでしょうか?

しかし壬申の乱の前後の、十市皇女の動向が何も記されていないのは、彼女が何もしていなかったためだとは言い切れず、古代最大の内乱、壬申の乱が勃発という、未曾有の混乱した時期であったため、

この時期の十市皇女に関しての、十分な記録が残っていない可能性もあるのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

そもそも、この乱の時期の動向が記されていないのは、何も十市皇女だけではありません。

天智天皇妃の倭姫にしても、十市皇女の母の額田王にしても、義母の伊賀宅子娘にしても、大友皇子の他の妻の耳面刀自にしても、近江宮廷側の人間だったと思われる、彼女達の動向は、誰一人として記されてはいないのです。

当然、戦火が迫る前に、各々散り散りになって、

避難していったはずです。しかし、そのような事すら、当時の史料には記されていません。

特に十市皇女は、皇后であった可能性すらあるのにです。

また、天武天皇即位後に成立した「日本書紀」や、「扶桑略記」・「宇治拾遺物語」などは、所詮勝者の天武天皇側の立場から記述・編纂された記録・歴史物語です。

大友皇子について具体的な記述があるのも、

彼の子孫とされる、淡海三船、つまり近江朝関係者の記録した「懐風藻」のみです。

 

 

 

 

 

 

十市皇女がもし、壬申の乱の時に、

父親へ宛てて夫との和解を願う密書を送っていたり、夫の助命嘆願をしていたとしても、

 まずそのような事は、天武天皇は記述させないでしょう。そしてこうする事で、娘の十市皇女も、父である自分の側の人間であったと、暗に印象付けたい事でしょう。

だから、このように考えてみると、

壬申の乱の際に、十市皇女が何か夫の大友皇子のために積極的な行動をしたと記している史料がないからとはいえ、必ずしも無条件に当時の十市皇女が、

父親寄りだったとは判断できない部分があるように思われます。 また、十市皇女が実際に「宇治拾遺物語」などのように、天武天皇側に情報を流し、父に協力していたとすれば、むしろ天武天皇側としては、大いにアピールしたい出来事でしょう。

しかし、「日本書紀」に、そのような記述がないという事は、

やはり、十市皇女は父方に近江側の情報を流してなどいなかったという事なのではないでしょうか?

  

 

 

 

大友皇子と十市皇女の夫婦関係については、

やはり、壬申の乱の時の十市皇女の動向がわからない事や、例の挽歌を高市皇子が詠んでいる事などから、不仲なイメージを持たれやすいような感じがします。

しかし、宮廷歌人として華々しく活躍していた

額田王を母に持つ十市皇女なら、自ら歌を詠む程ではなくとも、文芸に深い関心を寄せていた可能性もあるのではないでしょうか?

 

もしかしたら、血統上の関係からだけでなく、

このような傾向からも、大友皇子の妃には額田王の娘である十市皇女がよいのではないか?と選ばれた

可能性もあります。

また、大友皇子が詠んでいるのは漢詩のみですが、

当時の近江朝では、日本の古来の歌と共に、

皇族など身分の高い男性達・知識人達にとっては、

漢詩も重要なものと考えられていました。

また、実際に大友皇子は「皇子は博学で、各種の方面に 通じ、文芸武芸の才能に恵まれていた。

筆を取れば文章となり、言葉を出すと優れた論となった」と「懐風藻」に記されており、文芸に深い関心を寄せていた人物だったようです。

案外、共に文芸に深い関心を寄せる夫婦として、

なかなか仲が良かったのではないでしょうか?

それに、大友皇子と十市皇女の二人の母親達は共に、宮廷に仕えていた女性達であり、このような共通点も、彼らの間の親しみを増す要素となったのではないでしょうか。そしてこの夫妻の息子の葛野王も、これまた文人的な人物であったようであり、文芸を愛する祖母・父・母という環境から、このような葛野王の嗜好が育まれていったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

「懐風藻」によると、

大友皇子は皇太子の頃から、広く学者の沙宅紹明・塔本春初・吉太尚・許卒母・木素貴子などを招いて顧問の客員とするなど、当時進んだ技術や知識を持っていた、渡来人達の人材を、広く集め、自宅にも招待していたようです。沙宅紹明は、渡来人の百済の亡命貴族で「家伝」(鎌足伝)にも、「才思穎抜にして、文章世に冠とあり」と記されており、文人として資質が豊かな人物であったようです。「日本書紀」の天智十年(671)の正月には、

大錦下を授けられ、法官大輔であったとする注が

付けられています。このため、近江令の編纂にも参加したとする説もあります。

塔本春初も、百済からの亡命貴族で、

天智四年には、築城に携わり、後に大山下を授けられている。吉太尚は、天智十年の正月に、小山上を授けられ、許率母も天智十年の正月に、小山上を授けられている。

そして木素貴子は、天智十年の正月に、

塔本春初と同じく、大山下を授けられている。

彼らは、いずれも天智十年にこうして位を授けられているが、これは大友皇子が太政大臣に任じられた事を受けた人事であり、ここで彼らに官位が与えられたのは、大友体制を支えるためであったと考えられます。

 

 

 

 

おそらく、十市皇女が正妃として、

大友皇子の宮を訪れていたこれらの人々を、もてなしていたのでしょう。大友皇子夫妻の周辺には、このように文化的・国際的・先進的な雰囲気が漂っていたと思われます。

また、想像を膨らませてみれば、

当時の皇后の影響力の大きさから考えても、

約一年あまりとはいえ、十市皇女も皇太子妃・皇后

として大津宮の文化・文芸の隆盛の中心的な役割を

果たすようになっていたのではないでしょうか?

また、大友皇子の妃という立場上からも、

十市皇女には、そうした役割が期待されていた事だと思われます。 天智天皇が始めさせた、大津宮の文雅は、この頃には大友皇子・十市皇女夫妻が中心的存在になっていったのかもしれません。

ただ、途中で壬申の乱という大きな戦いがあり、

「懐風藻」によると、近江天皇の治世下、

学問や文化の隆盛が続いた。

そういう中で雅宴が流行し、多くの漢詩文が作られた、ところが、そこで作られた漢詩文の多くは、

壬申の乱でことごとく灰塵に帰してしまったそうです。

当然、この中には歴史書やその他の記録なども

含まれていたでしょうし、当時の近江朝の文芸の実態の様子を詳しく伝える記録も、その時に失われてしまったのかもしれません。

 

 

 

 

日本書紀も、当時の近江朝の詳しい様子については、記述がありませんし。

また、十市皇女の動向が当時の歴史書に見られるようになるのは、天武朝になってからであり、

いわば、天武天皇の皇女としての動向は、天武朝になってから成立した歴史書の「日本書紀」の中で伝えられていますが、いわゆる、十市皇女が皇太子妃・皇后だったと思われる時の、近江朝宮廷に関する史料の空白期などもあり、

それ以前の、大友皇子の妃だった時の生活がよくわからないため、 よけい大友皇子との不仲説が、囁かれやすい面が あるのだと思います。

(それに、実は十市皇女が大友皇子の妃だった事すら、「日本書紀」は記していないのです。十市皇女が大友皇子の妃だったと記しているのは、「懐風藻」です。

やはり、天武朝にとっては、大海人皇子と高市皇子の挙兵により、結果として夫の大友皇子を失った、

大友皇子の妃としての十市皇女の悲劇については、

あまり触れたくない事実だったという事なのかもしれません。) やはり、今後の近江宮廷の解明、そして大友皇子に関する解明が、待たれる所で しょうね。

(大友皇子に関しては、「弘文天皇」という題で、

遠山美都男氏が執筆予定のようですが。)

そうすれば、自ずと高市皇子と十市皇女の実際の

関係についても、解明する手がかりになるのではと思われます。

 

 

  

 

結局、高市皇子と十市皇女がどの程度の関係だったのか、

果たして十市皇女自身が、高市皇子の事をどう思っていたのかは、高市皇子の歌からだけでは、考えるのが難しいように思われます。

まさか、昔から高市皇子が、何年も十市皇女だけを想い続けていたとも思えないし。 いくら結婚前にしても、あの時代の皇子が二十歳過ぎまで恋愛経験なしとは考えずらいですし。

十市皇女から見ても、彼女が十五・十六歳くらいで大友皇子と

結婚したと思われる年頃、まだ当時は子供の年齢になる、

高市皇子を恋愛対象として見ていたとは、考えずらい気がします。

壬申の乱以降、二人は急接近したという事なのでしょうか?

しかし、壬申の乱以降、夫の大友皇子を失った十市皇女が過ごした五年というのも、何か微妙な時間ですね。

夫の死という辛い事実を乗り越え、敵将であった高市皇子と恋愛関係にまで進むためには、十分な時間であったのでしょうか?

しかし、唯一つ確かなのは、高市皇子にとって十市皇女の死は、非常に辛い出来事であったという事でしょう。

 

 

 

 

「万葉集」巻第二 一五六 三諸の神の神杉夢にのみ見えけんながらもいねぬ夜ぞ多き

 

 

意味 十市皇女がお亡くなりになってしまい夢にのみは

見ながら、直接はお目にかかれず、悲しさに寝られない夜が

多い。

 

 

 

 

 

一五七 神山の山辺まそ木綿かくのみからに長くと思ひき

 

 

 

意味 皇女の御寿命は、こんなに短いものであったとは思わず、 いつまでも長く在らす事ばかり思い申し上げた。まことに残念な事だ。

 

 

一五八 山振の立ちよそひたる山清水酌みにゆかめど道の知らなく

 

 

 

意味 皇女を蘇らせる生命の花を求め、山吹の立派に咲いている山の清水を汲みにいこうとしても、道をどう参っていいのかわからない。

 

 

 

 

 

ちなみに、何となく十市皇女の死去した年、まだ高市皇子は独身であったかのようなイメージがあるのかもしれませんが、彼が当時二十八歳である事や、阿閉皇女が当時十七歳であった事から考えると、当然その姉の御名部皇女は二十歳くらいにはなっていたと考えられ、壬申の乱が終わった673年頃に、十五歳くらいであった御名部皇女も、 すでに、二十三歳の高市皇子と結婚していても、おかしくないと思います。

どうも、高市皇子と十市皇女の関係について考えられる時、彼女の存在は忘れられている事が多い気がするので。

壬申の乱の翌年の、673年には高市皇子は十分結婚適齢期であり、おそらく御名部皇女の方も同様であったと思われ、

高市皇子が壬申の乱で大海人軍側の勝利に大いに貢献する働きをした事は、明らかであり、天武天皇がこれに報いてやるため、また天智天皇側(近江朝の遺臣達)取り込みのためにも、

この時期に天智天皇皇女である御名部皇女と結婚させた可能性は、 高いような気がします。

 

 

 

 

また、高市皇子にとっても、これは必ずしも悪い話ではなかったと思われます。生母の身分が低かった彼にしてみれば、天智天皇の皇女を妻として与えられる事は、大変に名誉な事だったと思われます。 だから、十市皇女が高市皇子と結婚できないのを悲観してというのには、 いろいろと疑問を感じます。

十市皇女が未亡人とはいえ、当時の皇女達は独自の宮をそれぞれ有しており、夫とは別に、家政機関というものを持ち、独自に財産管理も行なわせていたようです。別に、とりあえず生活していく上では、十市皇女が夫を持たないままであっても、不都合ではなかったはずです。

また、上記のように、十市皇女が死去した年には、すでに高市皇子が正妃として御名部皇女を娶っていた可能性もあり、 仮に高市皇子と十市皇女が恋仲であったとしても、必ずしも結婚にこだわる必要はなかったのではないかと思われます。

最初から高市皇子との結婚が、いろいろな事情から難しいことは、十市皇女も、既に承知していたと思われますし。

それに、やはり、そもそも二人が結婚したいと思っていたのかも、 謎と言うしかないような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、どうも二人に関する事柄・状況を整理していってみると、やはり、本当に高市皇子が十市皇女の死に際して詠んだ挽歌は、彼女への恋情を表わしたものであったのか、そしてこの挽歌は、果たして二人の恋愛関係を表わしたものなのか?という疑問が、どうしても残ります。

これまでにも書きましたが、当時二人の間に立ちはだかっていたと思われる障害が、多過ぎると思われる事、夫を壬申の乱の戦いで失った妃と敵将、そして天武朝から見れば、天武天皇の皇女とはいえ、かつて敵方に属していた十市皇女、そして当時すでに高市皇子が、 天智天皇皇女、そして天武天皇にとっては姪、鵜野皇后にとっては妹になる、有力かつ高市皇子にとっては疎かにできないと思われる、正妃の御名部皇女を迎えていたと思われる事、そして、亡き大友皇子と十市皇女の息子である、葛野王にとっても、叔父とはいえ、高市皇子は父親の仇でした。

もう八・九歳頃になれば、子供も、物心つく年頃です。

 

 

 

 

 

父親の悲劇的な最期を、おそらく聞き知っていたと思われる、

葛野王の心情としても、母の十市皇女と高市皇子が恋愛関係になる事は、あまり快く思わなかった可能性も、あるのではないでしょうか?

また、十市皇女の死去した時、まだ高市皇子と御名部皇女の長男の、 長屋王は誕生していなかったと推定されます。

草壁皇子と阿閉皇女の結婚と共に、高市皇子と御名部皇女との結婚も、重要な意味を持つ結婚でした。

二組の結婚とも、皇族を中心とした皇親政治への布石でしょう。

それは、後に彼らの息子長屋王が、草壁皇子と元明天皇(阿閉皇女)の娘の吉備内親王と結婚、そして長屋王の受けた待遇、

更にその後の、長屋王と吉備内親王の息子達が皇孫に格上げされている事などを見ても、明らかです。

当然、天武天皇と鵜野皇后も、天武天皇の長男の高市皇子と天智天皇皇女の御名部皇女との子供が誕生する事を、心待ちにしていた事でしょう。

これらの事を考えると、当時の十市皇女と高市皇子が従来言われているように、情熱的に恋愛に突き進む事ができたのか、訝しく思う所があります。

 

 

 

 

 

 

 

また、他にも私が引っかかる点としては、果たしてすでに当時正妃の御名部皇女を迎えていたと思われる、 高市皇子が挽歌とはいえ、その中で堂々と、他の女性へのあのような切々とした感じの恋情を表わしてしまっても、問題がなかったのか?という箇所です。御名部皇女の立場としては、これでは正妃としての面目丸潰れにもなりかねないのではないでしょうか?また、上記のように、当時、まだ長男の長屋王も産む前であった御名部皇女からしてみれば、よけいこれは見逃せない夫の言動だったと考えられます。更に、彼ら当事者間に血縁関係もあるだけに、 よけい厄介とも言えます。この、起こりうる事態に関しては、 どうも、古代は男女間におおらかな時代であったから、で片付けられてしまいがちな気がしますが。

しかし、いくら古代でも、何でもありだったとは思えないのですが。

こう考えてみると、高市皇子の十市皇女に捧げた挽歌は、実は十市皇女に対しての恋情の歌ではなくて、あるいは弟として姉の死を悼む、懺悔と鎮魂の歌であったのかもしれないとも、思えてきます。

結果的に、姉十市皇女の夫大友皇子の命を奪う事になってしまった事に対してと、夫を壬申の乱で失い、最後まで夫の死に苦しみ続けていた、薄幸な姉に対しての。

実際に、高市皇子の挽歌は、弟として十市皇女の死を悼んだものだとする解釈も、あります。

 

 

 

 

○高市皇子の年齢について。

高市皇子は、これまでは推定652年か653年頃の生まれと

考えられていたようです。しかし、額田王に関しては最新の研究成果と言ってよい、「ミネルヴァ日本評伝選 額田王 梶川信行」によると、679年の五月の、吉野の盟約に参加時、

二十九歳だったと書いてあり、私はこれに従い、

高市皇子は650年生まれという事にさせてもらおうと思います。

だとすると、やはり、十市皇女とは五歳から七歳くらいの年齢差があったという事になりますね。