推古三十五年(六二七)頃生誕。没年不詳。父は鏡王。

天武天皇の妃の一人で、十市皇女の母。

「万葉集」を彩る、美しき綺羅星の如き存在の、

額田王ですが、彼女自身について判明している事は、

多くありません。「日本書紀」では額田姫王。

「王」が付く事から、四世から五世くらいの皇族と考えられています。

また、鏡王女と姉妹という説もありますが、

「日本書紀」にも「万葉集」にも、二人が姉妹であるという記述はなく、

このように確証はなく、近年ではあまりこの説は支持されなくなって

きているようです。 また、その名前から、推古天皇と同じく、

額田部氏により、大和国平群郡額田郷で養育されたようです。

推古天皇の即位時、おそらく彼女の養育に当たっていた

額田部氏が重用されていたと考えられ、そこから額田王の養育先も、

推古天皇により、額田部氏が選ばれた可能性があるそうです。

 

 

 

 

 

また、額田王と大海人皇子の結婚年令についてですが、

額田王は常に彼の母の皇極天皇の側に侍り、

彼女に代わり歌を代作していた役割を果たしていたようであり、

このような事から、額田王は平安時代に、男性が成人した時に、

年上の女性から選ばれる、「添い臥し」と呼ばれる、

最初の妃として、皇極天皇に選ばれたのではないかと考えられます。

額田王は初め十六歳くらいで宮廷に出仕し、

皇極天皇の側近歌人となり、大化元年(645)頃に、

十九歳くらいで、彼女より三・四歳年下だったと考えられる、

大海人皇子が成人した、十六歳くらいの時に、

彼の最初の妃になったようです。

この頃、結婚と同時に額田王は宮中を下がり、「日本書紀」の中の記述の

され方などから、難波の大海人皇子の宮殿には入らず、

飛鳥で大海人皇子の訪れを待つようになったらしい。

後に娘の十市皇女の夫となる大友皇子が648年には

誕生しており、ほぼ同年齢と考えられるため、

結婚して一・二年後くらいには、十市皇女を産んだと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

すでに大海人皇子との間に、娘の十市皇女も生まれていたと

思われる頃、再び斉明天皇として即位した女帝の側近歌人として

復帰としたようである。しかし、斉明六年(660)の七月に、

百済が滅亡という、東アジア諸国の情勢に大きな影響を与える

出来事が起きた。

早速、朝廷は翌年の斉明七年、百済救援のために、

朝鮮半島への派兵を決意。倭国の船団は、

斉明七年の一月六日、難波津を出航し、一月十四日には、

熟田津に到着。この新田津とは、現在の愛媛県松山市の辺りに

存在していた港だと考えられている。

この場所で額田王は、有名な出航を促す、「熟田津に船乗りせむと

月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな」の歌を詠んでいる。

 天智二年の八月に、倭国の大船団を率いて戦われた、この「白村江の戦い」は、結局倭国の大敗に終わってしまった。

また、この二年前の斉明七年の七月に、額田王が仕えていた

斉明天皇が崩御した。

天智六年の八月、近江へ遷都が行なわれる。

この近江大津宮では、豊かな文芸が花開き、

またこの時代が、額田王の歌人としての活躍の最盛期になります。

 

 

万葉集巻第一

二〇

 

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  

 

 

意味 茜色を帯びる、あの紫草の野を行き、標野を散策している私に、

あなたは袖をお振りになられていますが、野守に見つかってしまいますよ。

 

 

 

額田王の歌の中で、最も広く知られている歌です。

蒲生野に、天智天皇、大海人皇子、そしてその他多くの廷臣や

女官達が薬猟をした時の、歌とされます。

 

 

 

茜色の日差しが差す、蒲生野、そしてかつて恋人であった女性に、

現在、多くの人々の散策している野の中で、大胆な求愛を

する男、そしてそれを軽くたしなめる女。

後世の額田王の美女、そして恋のヒロインを印象付ける事になった歌と言えるでしょう。しかし、実際にはこれは座興の歌として詠まれたという説が、

有力になってきたようです。そしてそれを裏付けるかのように、

「万葉集」の中では、「相聞」ではなく、「雑歌」に分類されています。

梶川信行氏の説の根拠としては、そもそも、額田王が美女であるとされ始めたのは、江戸時代の上田秋成ら文学者達の連想からであり、

額田王が美女だとする、当時の確実な史料はない事、

斉明天皇の推挙により、添い臥しとして、大海人皇子の最初の妻になったとは思われるものの、「日本書紀」には、額田王が天智天皇の妃に

なったとする記録はない事、かの有名な紫草の歌のやり取りが行われたのは、おそらく、薬猟が行われた後の、宴の席で座興として堂々とやり取りされたものだと思われる事、そして当時額田王は、四十歳は越えていたと

思われ、また大海人皇子も同年代、そして二人にはもうすぐ孫も生まれようかという時であり、紫草のやり取りが、情熱的な恋の歌として詠まれたとは

考えずらい事のようです。

 

 

 

実は私は、以前から梶川信行氏の額田王に関する評伝の、

新書で「はなわ新書 創られた万葉の歌人額田王」の頃から、

氏の説には感銘を受け、注目しておりました。

新たに、ミネルヴァ評伝選のシリーズの一冊として、

新たに近年販売された事も、嬉しく思っています。

以前から、その存在に興味は抱いていたものの、

何かと曖昧な部分が多い彼女、しかし、まず氏の推古朝末の生まれや、大海人皇子の添い臥しだったのではないかとする指摘から、

一気に引き込まれ、

今まで半ば伝説的な人物であった彼女が、一気に実在感を持ち始め、

生涯の輪郭のようなものが窺えた事に、非常に満足感を感じた記憶が

あります。

という訳で、私は梶川氏の額田王に関する研究成果には、

従来のどの額田王論より、説得力を感じており、

額田王に関しては梶川説を支持したいと思います。

 

 

 

 

 

こうして考えると、蒲生野での紫草の歌は、すでに熟年になっていた妻

額田王と、大海人皇子との夫婦としての親しみの感情を込めて

詠まれた歌という感じですかね。

 

 

「万葉集」巻第四

四八八   君待つとわが恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く

 

 

意味 あなたをお待ちして恋しく思っていると、

我が家の簾を動かして、秋の風が吹いてきた。 

 

 

男性の訪れを待つ、しっとりとした情趣が感じられる歌ですが、

これも、梶川氏の「額田王」によると、宮廷の中で文雅の一端として詠まれたのではないかとの事です。

これまでは、天智天皇の妃になってから、天智天皇の訪れを待つ歌ではないかと解釈される事が多かったようですが。

また、この額田王の歌に応える形で詠まれた、鏡王女の歌が

あります。これも、二人が姉妹という設定で、詠まれた可能性が

あるようです。この二人の歌からは、中国の漢詩の影響が感じられるそうです。当時の、大津宮の文化水準の高さが窺えるようです。

すでに、この時期娘の十市皇女に葛野王も生まれ、

公私共に額田王が最も充実していた時期だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

しかし、天智天皇の死後、額田王と十市皇女母娘の運命を、

大きく変えてしまう、古代最大の内乱「壬申の乱」が起きてしまうのです。

一旦は出家し、吉野に隠棲した大海人皇子が兵を率い、

挙兵。叔父と甥の間で、皇位継承の激しい戦いが行われる事に

なってしまいます。まさに、この渦中の最中にあった、

額田王と十市皇女の苦悩は、察するに余りあります。

 天智天皇の葬儀に参列していた額田王は、挽歌を詠んだ後、

他の出席者の女性達とともに、山科の御陵から戦火が迫る前に慌しく避難していったと考えられます。しかし、この戦いの間の、額田王と十市皇女の動向が伝えられている当時の史料は、一切ありません。

戦いは一ヶ月で終了、672年の七月二十三日、

大友皇子は山前で自害、二十五歳の悲劇的な最期を遂げました。

しかし、この間の額田王の記録がないとはいえ、大友皇子の自害までの間、彼の母の伊賀宅子娘や娘の十市皇女と共に、

大海人皇子側に、彼の助命嘆願くらいはしていても、おかしくないような気がします。娘の夫大友皇子の死は、額田王にとっても辛い出来事であったでしょう。

 

 

 

 

 

乱終了後、飛鳥に戻ったと思われる、額田王に五年後、

再び悲劇的な報せが伝えられます。

娘十市皇女の、宮中での急死です。

十市皇女の死に関しては、自殺ではないかとも言われており、

それが事実なら、母額田王の悲しみと嘆きは、更に深かった事

でしょう。天武朝になってからの、額田王の歌人としての活動の形跡はなく、これはおそらく、柿本人麻呂の台頭などもあり、

額田王が活躍する場はすでになかったのだろうと考えられています。

また、やはり、額田王は近江側に属する立場であり、

また天武天皇の最初の妻であり、

歌人として名声を博した額田王に対する、鵜野皇后の複雑な感情など

もあり、敬しながら遠ざけられていた可能性があるようです。

また、額田王自身も、もはや天武朝で歌を詠む事は望まなかったのかも

しれません。

飛鳥でひっそりとした暮らしを送るようになっていたと思われる

額田王ですが、晩年になってから弓削皇子との歌のやり取りをしたらしく、

おそらく、これが額田王の歌人としての最後の活動だったと思われます。

 

 

 

 

こうして見ると、額田王は歌人としては華やかで輝かしい活躍を

長い間続け、当代の名歌人としての名声を馳せましたが、

個人としては、夫大海人皇子と決別したという訳ではないものの、

大きな歴史の流れにより、自然と疎遠になっていってしまい、

また、愛する一人娘の十市皇女を失い、夫の天武天皇にも

先立たれ、個人としては淋しさや不幸を感じる側面もある、

生涯だったように思われます。

額田王は、これまで長く語られてきた、美女でラブロマンスのヒロイン

ではなかったのかもしれませんが、宮廷に仕えていた女性でもありますし

、華やかな女性だったのではないでしょうか?

また、額田王の歌の魅力も、変わりはないと思います。