和銅八年没。

天武天皇と蘇我赤兄の娘の大ぬ娘(石川夫人)の皇子。

正妃の存在は、不明。

妻としては晩年に結婚したと思われる、大伴坂上郎女の存在が確認

できるのみ。 この時、大伴坂上郎女は、十五・六歳だったと推定される。

彼女は穂積皇子から、大変な寵愛を受けたという。

しかし、残念ながらこの「万葉集」の代表的歌人二人の相聞は、

残されていない。

 

 

 

 

また、穂積皇子と言えば、同じく天武天皇の皇子で異母姉か妹?の、

但馬皇女との恋で有名です。

いつ、どのようにして、但馬皇女との恋が始まったのかは、

よくわかりません。しかし、但馬皇女の穂積皇子への情熱的な恋の

歌が三首残されている事から、必ずしも但馬皇女は受身のまま、

穂積皇子から求愛されたとは限らないような気がします。

しかし、当時但馬皇女は太政大臣の高市皇子の妃であり、

彼ら二人のこの恋は、許されない恋でした。

また、但馬皇女があなたを追いかけてついていきたいという、

「万葉集巻第二」の115の歌の詞書に、

穂積皇子が勅命により、近江の志賀寺に遣わされし時の歌とあるので、

やはり、二人の恋は露見し、持統天皇の命令により、

こうした形で穂積皇子が罰されたと考えられます。

 

 

 

また、「万葉集」巻八の、穂積皇子の以下の二首は、但馬皇女に贈られたものかとも考えられています。

 

 

「万葉集」巻八 秋雑歌   一五一三 今朝の朝明雁が音聞きつ春日山黄葉にけらし我が心痛し

 

 

 

意味 今朝の夜明けに雁の声を聞いた。おそらくもう春日山も黄葉はした頃だろう。そう思うと我が心も痛む。

 

 

 

 

一五一四 秋萩は咲きぬべからし我が屋戸の浅茅が花の散りぬるを

見れば 

 

 

 

意味  秋萩は咲くべき時になったらしい。私の家の浅茅の花がすっかり

散ってしまったのを見ると。

 

 

 

確かに、最初の一首など特に、そのように思われる調子・表現に

思われます。

 

 

 

穂積皇子は、秋が来た事に、美しさを見出すよりも、

悲しみの情の方を強く感じており、「わが心痛し」として表現されています。

確かに、この「痛し」という形容からは、ただ切ない、何となく物悲しいというよりも、文字通り痛切な感情の方をより強く感じます。

やはり、但馬皇女との悲恋への苦悩・悲しみが連想されてきます。

 

 

やがてその内に、但馬皇女の夫高市皇子が死去します。

そして、その後、但馬皇女も和銅元年の六月に、

おそらく若くして亡くなったと推定されます。

穂積皇子は、但馬皇女の死を悼み、雪の降る日、

遠くから彼女の葬られた墓を望み、涙を流しながら、

次の挽歌を詠んでいます。

 

 

 

「万葉集」巻第二 二〇三

 

「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」

 

 

降る雪よ、あまりたくさん降ってくれるな、吉隠の猪養の岡に眠る

あの人が寒いだろうに。

しかし、これは但馬皇女の墓のある猪飼岡へと通じる道との間が、

雪で塞がれてしまい、自分がそこに行く事ができなくなってしまうからと

いう意味であるという解釈も、あるようです。

 

 

 

 

いずれにしても、穂積皇子の、但馬皇女への愛と深い悲しみが

伝わってくる歌だと思います。

二人は、心から愛し合っていたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

但馬皇女の死後、おそらく数十年も経ち、

若い頃の苦しい恋を経て、酸いも甘いも噛み分けた、

中年の男性になっていたと思われる穂積皇子は、

当時彼より親子程の年齢差があったと思われる、大伴坂上郎女と、

再び情熱的な恋に落ちたと思われます。

おそらく、若いとはいえ、穂積皇子がその人生の晩年に出会った、

大伴坂上郎女は、打てば響くような才気のある、

魅力的な少女だったのでしょう。

彼から、但馬皇女は男女の恋について、そして歌について多くを

吸収していったのでしょう。

おそらく、これは穂積皇子が晩年になってからの歌だと

思われますが、彼は宴の席で酔うと必ず口ずさむ、

一首の歌がありました。

「万葉集」巻十六  三六一八 家にある櫃に鍵刺し蔵めてし恋の奴が

つかみかかりて

 

 

 

意味 家にある櫃の中に鍵をかけて閉じ込めておいた、

恋の奴めがまたつかみかかってきた。

 

 

 

 

若き日の但馬皇女との恋など、これまでさんざん、恋に悩み苦しみながらも、また恋に囚われてしまったという、穂積皇子の自嘲が感じられる

歌です。甘美でありながらも、厄介で狂おしいもの、それは恋という

感じでしょうか。

 

 

 

大伴坂上郎女との結婚生活は、何年続いたのかは不明ですが、

穂積皇子は最終的に、知太政官事という、高位に昇りました。

しかし、高位とはいえ、これは名誉職のようなもので、

実権はない役職だったようです。

多情多感な風流人であったらしい、穂積皇子ですが、

出世とは縁がなかったようです。