講談社文庫 「万葉集」中西進 全訳注  1978~1983年

集英社文庫ヘリテージシリーズ「萬葉集釋注」全十巻 伊藤博 集英社  2005年

角川文庫「 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

万葉集」 2001年 

講談社学術文庫 「万葉秀歌 全四巻」久松潜一 講談社  1976年

講談社学術文庫「懐風藻」 講談社  2000年

講談社文庫「万葉集事典」 中西進 講談社  1985年

講談社学術文庫 「万葉集鑑賞事典」神野志隆光 講談社  2010年

「万葉集」を知る事典  尾崎富義  2000年

「よみがえる万葉人」永井路子 読売新聞社 1990年

元々頻繁に新装版が出版される感じの小説の方とは違い、残念ながら、永井路子の歴史に関する考察やエッセイ系は、なかなか復刊されない傾向があるのですが、特に古代史関連はそういう傾向が強く、本当に残念です。更に万葉集関係は、ことごとく絶版になったままです。

この時代関連のものでまだ入手できそうなのは、一番出版年が新しいせいもあると思われる、「女帝の歴史を裏返す」くらいではないでしょうか?

万葉集関連の作品は、それぞれ違うテーマで執筆されているようで、この本は歌というより、「万葉集」関連の歌人達にスポットを当てたものです。

 

 

 

 

運命の恋人但馬皇女との死別後の、穂積皇子の公的人生、中臣宅守の配流による、彼と狭野弟上娘子の痛切な悲恋の陰に潜む政治性、忘れられた文武天皇の皇子石川広成、「貧窮問答歌」で有名な山上憶良は実は富裕なインテリだった、柿本人麻呂は実際はおそらく下級役人であり、また、その死もおそらく水難事故だった可能性はあるものの、その死についての事件性の可能性は低いと思われるのに、時代と共にその人生に、増々ミステリアスな色彩が付け足される一方の、彼の等身大の評価希望宣言などが、特に興味深い章でした。それから、漫画家里中満智子の人物描写って、かなりこの永井路子の影響を、受けているなということに、気付きました。

ある日、ふと気づいたことですが。

でも冷静に考えてみれば、この作者は古代史関連の漫画を描いているんだから、当然古代史関連でも著名な歴史作家の、永井路子のエッセイなどを、参考にしていても、おかしくはないですよね。

持統天皇が祖父の蘇我倉山田石川麻呂と母の遠智娘のことで、父の天智天皇や蘇我赤兄のことをかなり恨んでおり、壬申の乱は、彼女による祖父と母の仇討ちの側面もあった、元明天皇と元正天皇は、単なる中継ぎではないとか。また考謙(称徳)天皇に、かなり同情的な感じなど。

いずれも、最初にこれらの可能性について指摘したり、そういう傾向を示したのは、やはり永井路子だと思いますし。

こうして見て見ると、この作者の採り入れている見方って、かなり永井史観とかぶっているなと。

 

 

ただ、私は古代史関連で数々の実績を挙げている永井路子といえど、確かに彼女のこれまでの功績については、私も十分評価はしていますが、ちょっと考謙天皇に同情的過ぎる感じは、あまり頂けないと思っています。

確かに政敵達などから、道鏡との関係について、実際以上にスキャンダル化されたのは事実かもしれないですが。

また仮に彼らがプラトニックな関係だったにしても、それまでずっと俗世間から離れて学問や修行に勤しんできた僧侶の道鏡の意見が反映されるようになったせいか、藤原仲麻呂の滅亡後、彼が権力を握ってからは、各刑罰もやたらと厳しく、考謙・道鏡時代の政治が、何かと現実性やバランス性を欠き、評価できるような政治をやっていなかったのは事実。

このように、考謙天皇については、とりあえず藤原仲麻呂から権力を奪還したということ以外、特に評価できるような点はあるのか?など。

また藤原仲麻呂及び彼の政治の再評価の動きも、あるようですし。

 

 

 

 

文春文庫版 1993年 

「万葉 恋歌の装い 新典社」 菊池威雄 2010年

「はなわ新書 創られた万葉の歌人 額田王 梶川信行 塙書房」 2000年

「ミネルヴァ日本評伝選 額田王 梶川信行 ミネルヴァ書房」  2009年

 

 

 

 

「天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀」

遠山美都男 

角川学芸出版

遠山先生の仮説は、時には大胆過ぎる感じがして、ついていけない感じがする時もあるのですが、これはいい意味で刺激的な仮説の提示になっていると思います。壬申の乱の勝利者となった天武天皇の政治的意図により、「日本書紀」の中の「壬申記」は、中国の古代王朝についての歴史書「史記」から着想を得ており、その中で天智天皇は始皇帝に、そしてその息子大友皇子は、始皇帝の末子で暗君とされる胡亥に。そして天武天皇自身は、二代で秦を滅亡させてしまうことになった、この暗愚な胡亥に代わり、新たな王朝となった漢の開祖劉邦になぞらえて、書いているというのです。確かに、当時の先進国である大陸の国々からいろいろな文化や先進技術を取り入れることに意欲的であった当時の日本。

実際に文学の分野でも、鏡王女と額田王の宮廷サロン的な歌会の場で交されたと推測される、秋風の歌には、いわゆる中国の「閨怨詩」の影響が感じられるということは、すでに指摘されていることですし。

そしてその他にもこうした史書の記述内容についても、当時の中国のそれから着想を得ることがあっても、それ程不思議ではないように思えます。

 

 

 

「額田王と初期万葉歌人 コレクション日本歌人選21」

梶川信行

1200円

笠間書院      

 

 

 

恋の歌は、それ程多くはありませんが、解説によると、鏡王女の藤原鎌足への歌、石川郎女の久米禅師への歌などから、初期万葉には、男性を女性がやりこめる形の歌が多いとあって、この指摘は印象的でした。

 確かに才気煥発で恋愛に主体的・積極的な感じの女性達を連想させる、そのような歌から、「万葉集」の後の時代の方の歌を読むと、時代が下るにつれて、男性の訪れを待つ傾向の歌が多くなってきている感じなので、恋愛観の変化・歌の形式の変化などが感じ取られて、興味深かったです。

 

 

 

 

それから、問題の伊勢神宮に十市皇女が参詣した時に、同行した侍女の吹黄刀自が詠んでいる、意味深なものを感じさせる、常乙女の歌及び高市皇子の十市皇女への挽歌の所が、やはり特に注目して読みました。

前著で歌は史料ではないと書かれていたものの、やはり、なにぶん、天武天皇皇女とはいえ、有名な万葉歌人を母に持ちながらも、本人が詠んだ歌も、残されていませんし、「日本書記」の具体的記述も少ない十市皇女の事ですし、(「日本書紀」って、基本的に個々の皇族の行動に関しては、記述が少ないのですが。そして更に、個人的な行動の記述については、皆無と言ってもいいですし。)

またちょうど、彼女が大友皇子正妃だった時期は、「壬申の乱」という、古代最大の内乱のあった混乱期であり、近江朝側の史料空白期に当たっている事もありますし。

 

 

 

 

 

 

高市皇子の挽歌中心、つまりこの歌の高市皇子の心情を主にして歌の背景・意味を想像すると、やはり、従来通りの解釈になってしまいやすかったという事でしょうか?

彼らは悲恋の関係だったのでは?という。

更に、先の、吹黄刀自の詠んだ、 常乙女の歌まで、高市皇子との間にあったと予想される、悲恋に結びつけられて解釈されていたし。

割と、額田王を中心に取り上げた本にしては、梶川先生の、壬申の乱の敗者である、大友皇子に関して比較的公平な姿勢が印象的であり、そこは期待していた部分でもあったのですが。

(確かに、本来なら大友皇子は額田王にとっても義理の息子であり、紛れもなく、彼女にとっても重要人物に当たるのですが、どうも高市皇子の挽歌から、 娘の十市皇女と大友皇子の不仲及び高市皇子と十市皇女の相思相愛を前提として、専ら彼らの悲恋の方に共感を寄せる姿勢の本が、目立ちやすいので。そのため、それらが、そのまま敗者側になってしまった、大友皇子の低い評価、あくまで天武天皇が最初から天智の後継者と想定されていた正統な後継者、という見方にも、繋がりやすい感じが。)

 

 

 

あくまで天武側を正統とする姿勢の、「日本書紀」及び後世の書物での、近江朝側の扱いには、注意して読む事が必要だというように、述べておいでだったので。

でも、やはり、高市皇子と十市皇女との関係の捉え方は、それはまた別という事だったようですね。

それに、やはり、万葉学者として、高市皇子の挽歌の心情から中心に二人の関係を推測し、なおかつそれでも、なるべく歌だけで推測しないようにと心がけると、悲恋が想像されるとか、複雑な事情が想像される、と述べるのが、先生の立場からは限界なのかもしれませんね。万葉学者の間では、この問題における、当時の高市皇子と十市皇女が置かれていたと思われる、複雑な状況についての歴史的な細かい考察は、行われずらいようですし。

この挽歌が詠まれた時期、当然高市皇子は、御名部皇女とすでに結婚していたはずであり、本当に彼女の存在は、二人が恋愛関係になるにあたっての、障害にならなかったのか?など。万葉学者の間では、高市皇子の挽歌から、高市皇子と十市皇女の悲恋が連想されるという事のみの、解釈しか行われない傾向があるようです。

この挽歌の解説の中で、当時、諸事情から、高市皇子ともう結婚していた可能性が高い、御名部皇女の存在の指摘は、万葉集関係の本で、見た事がないので。

 

 

 

 

それから、確かにこういった例の一つとして、例えば「日本書記」中の、「壬申の乱」での、高市皇子のこの乱での活躍が、強調されている印象は、否めませんし。

実際に、この乱で高市皇子は活躍したのでしょうが、やはり、「壬申の乱」の勝利者である天武天皇の息子として、  更にそれを強調しようとする意図も、隠せません。

そしてこの記述から、必然的に、彼と比べて武力に劣る大友という人々の連想も、浮かびやすいようですし。

(いわば、ひよわなインテリみたいなのが、一般的な大友像なんでしょうか?

「日本書紀」の内容だけをそのまま読んでしまうと、常に、彼側が後手後手に回っていたかのような印象が、どうしても強くなってしまいますよね。別段彼の軍事的活躍が、書かれている訳でもないし。

しかし、遠山美都男先生の「角川ソフィア文庫 天智天皇 戦う天皇の実像」によると、両者の緊張状態の中、壬申の乱において、先に攻撃をしかけたのは、大友皇子の方だとしており、興味深い指摘でした。)そして、こんな大友より、きっと十市皇女は雄々しい高市皇子の方を愛していたに違いないという連想にまで、 なりやすいのではないでしょうか?

天武天皇も高市皇子も、人気がありますしね。

 

 

 

 

 

 

それから、おそらく、天武天皇の子供達の中で、異母兄姉妹弟の関係に当たる、穂積皇子と但馬皇女、そして弓削皇子と紀皇女達が詠み交わした、相聞の歌が残っている事などもあり、やはり、いとこよりもおそらく、子供は各母親の許で育てられるという、当時の習慣から考えておそらく彼らは別々に育てられていたと思われるとはいえ、同じ天武天皇の子供、姉弟の関係に当たる彼らの方が、心情的に接近しやすいのでは?と思われやすい傾向なんでしょうが。

だから、結局妻十市皇女の、おそらく嫌々だったと思われる、近江朝の頃の、大友の正妃だった時の役割なんか、追及しても無駄であるかのような感じになりやすいのでは? 

でも、こういう風に、すぐそんな風に判断してしまうのもどうなんでしょうね?少し、見方が一面的過ぎるような。

十市皇女が夫大友との結婚を不幸だと感じていたにしても、当時の皇族女性が、個人の好き嫌い、夫への好悪だけで、行動していたとは思えないし。

 

 

 

また、実際にも、そんな事はできないでしょうし。

彼女がその立場上、否応なく果たさなければならない役割も、多かったと考えられます。

 私は例え十市皇女が大友と不仲だったにしても、大友皇子正妃だった時の彼女の前半生に、とても興味があるのですが。やはり、この期間が十市皇女の生涯において、その後の彼女の運命までも、決定付けたと考えられる、一番重要な時期だったと思われるので。客観的に見れば、次期天智天皇の後継者と目されていた大友皇子の正妃、もしくは皇后という栄光の立場から一転、壬申の乱後は、天武天皇の娘の一人に戻ってしまったわけですし。

そして、かつての敵近江朝の大友皇子の正妃という、むしろ苦しい立場に置かれてしまう訳ですし。

そして彼女が大友皇子の息子を擁している事からも、どうしても、かつての近江朝の象徴のような存在に、なってしまいやすかったと思われますし

どうも、十市皇女も、ちょうどいろんな点から、取りこぼされてしまいやすい立場、人物なんですよね。

母のように、何首か歌を残していれば、歌人としてある程度その方面から、その生涯の解明が、試みられたかもしれませんが、しかし彼女については、それもないし。

歴史人物として捉えても、特に彼女の目に見えた業績も見つからず、敗者の妻という立場になってしまった事もあり、またその具体的役割・行動が、見えにくいので、歴史学者からも、天武天皇の悲劇の皇女という以外、これ以上の追求は無理という感じになりやすそうですし。

 

 

 

かといって、基本的に自分達の興味・好み優先になりやすい、作家達などの場合も、専ら高市皇子と彼女の相思相愛を支持し、大友とは不仲で不幸な結婚生活だったで片付けてしまいやすい感じの、彼らの頭の中からも、「十市皇女の、大友皇子の正妃としての、具体的な生活及び役割」という視点が、すっぽりと抜け落ちている感じなのは、否定できません。

十市皇女といえば、専ら彼女のその立場からの悲劇、及び高市皇子との悲恋しか、想像されないようで。

(大友皇子の母が主役の某歴史小説でさえ、ほとんど登場せず、影が薄い描かれ方でしたし。ほぼ次の後継者と目されていた大友皇子の正妃にしては、彼女が華々しく、多くの宮中の公式行事に参加し、正妃の役割を果たしていた描写が、なかったような。)

従って、今後も、どちら側から考えても、十市皇女の大友皇子の正妃時代も含めた、生涯及び役割の具体的解明が、積極的に試みられる事は、望み薄そうなので、もちろん、所詮私のそれだって、推測の域を出ない事になってしまうのは、わかっていますが、場合によっては、突拍子がないとさえ、思われてしまっているのかも、しれませんが。)

しかし私としては、従来の十市皇女の扱い・見方にも、どこか釈然としない部分があるので、独自に追求したくなってしまうんですよね。)

 

 

 

 

 

やはり、大友皇子と十市皇女などに関して、もう少し従来とは違う見解が見られるかもしれない可能性としては、遠山美都男先生の「弘文天皇 ミネルヴァ書房」の刊行を、もう少し待つしかなさそうですね。どうしても、十市皇女というと、高市皇子の恋人とか、悲劇の皇女とかいう視点ばかりで、捉えられやすいようで。

しかし、次期天智天皇後継者と目されていた、大友皇子の正妃だった時期は、前述の通り、彼女の人生において紛れもなく、その後の人生にまで影響を及ぼす程、重要な時期だと思われますし。

やはり、彼女の全体的な人生を解明するためには、大友皇子の正妃だった時期の、彼女の公的役割についての考察が、必要だと思われるのですが。難しいですが。

 大友皇子との夫婦仲がどうであれ、当時の大海人皇子の娘の姫王という皇族、時期天智天皇後継者の正妃、ましてや壬申の乱時、皇后であったかもしれない、このように大変に公的な立場にあった彼女が、個人の感情だけで行動していたはずはなく。

本人の感情はよそに、当然その立場上、宮廷の儀式等の諸行事に参加する機会も多かったでしょうし。

やはり、夫の邸で時には訪問客をもてなすなど、大友皇子の正妃としての役目のようなものは、当然果たしていたと思われます。もう少し、十市皇女のここら辺の部分にも、想像が巡らされても、いいような気がするのですが。

 

 

 

 

しかし、夫婦仲が悪かったというイメージから、(しかし、本当に高市皇子との悲恋があったのだとしても、何も夫の大友皇子と不仲だったとまでしなくても、いいような気がするのですが。高市皇子がちょうど青年、程よい年頃の青年になった時は、すでに壬申の乱になっている頃ですし、二人に恋が芽生えたとしたら、壬申の乱後の可能性が高いのではないでしょうか?)

どうしても、そういう視点が抜け落ちてしまう人達が多く、専ら壬申の乱後、おそらく父天武天皇の保護下に入ってからの、そして亡くなる年に高市皇子から意味ありげな感じの挽歌を捧げられている時期への関心が、集中してしまいやすいようですが。

 

 

 

「日本書紀」の虚構と史実  遠山美都男 洋泉社  2012年