667年頃生誕。699年没。

天武天皇と大江皇女の皇子。

同母の兄に長皇子がいる。

皇子達の中では、志貴皇子、穂積皇子と並んで「万葉集」の歌の収録数が多い。また、相聞の歌が多い。

当時六十代と思われる、額田王との間に贈答歌も残されている。

 

 

 

万葉集巻第二巻 一一九 吉野川逝く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも

 

 

意味  吉野川は流れゆく瀬の水が早いのでしばらくも淀む事がない。

末長く私達もたゆとう心なくありたいものだ。

 

 

 

人妻であった紀皇女との思うに任せぬ、関係が途絶えがちな恋を嘆いた

歌です。

 

 

 

 

 

一二〇 吾妹児に恋ひつつあらずぱ秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを

 

 

意味 吾妹子に恋い苦しんでいないで、あの秋萩のように美しく花開いては散っていくようでありたいものよ。

 

 

 

 

そして、この歌は彼女への恋の苦しさから、自暴自棄になった気持ちを

表わしています。

 

 

 

 

 

一二一 夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな

 

 

意味 夕暮れになると潮が満ちて来るだろう。そうならぬ内に

住吉の浅香の浦で玉藻を刈りたい事よ。

 

 

 

これし、人の噂が立たない内に、彼女と契りを交わしたいという気持ちを

表わしています。

 

 

 

一二二 大船が泊まる港の水のように心が揺れ動いてはあれこれと

思い続けて痩せた事だ。

 

 

 

噂の立たない内に、紀皇女と共寝をしたいと思ったものの、

彼女は人妻であるためどうにもならず、物思いに痩せるような、

苦しい気持ちだという事を表わしています。

 

 

 

四首とも、すでに人妻である紀皇女に恋してしまった弓削皇子の、

せつなく苦しい思いが現れている歌だと思います。

しかし、弓削皇子には、紀皇女への恋の悩みだけではなく、

他の悩みもあったらしい事が、窺えます。

 

 

それは弓削皇子が、晩年の額田王に贈った歌から知る事ができます。

これは恋愛歌ではありませんが、一応都合上、紹介しておきます。

 

 

「万葉集」巻二 一一一 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴き渡り行く 

 

 

 

意味 昔を恋する鳥でしょうか。弓弦葉の御井の上を鳴きながら

渡り過ぎていく事よ。私はおそらく、「いにしへに恋ふる鳥」なのでしょうね。

どうも、時代に馴染めなかったと思われる弓削皇子が、

おそらく当時天武朝からは敬遠され、飛鳥でひっそりと過ごし、

かつて自分が歌人として華々しく活躍していた近江朝の頃の、

回想に耽っていたのではと思われる、

額田王に対して、こうした形で親しみを表わしている歌のようです。

弓削皇子は、「懐風藻」の葛野王の伝記によると、

次期天皇を選ぶために、重臣達が協議中、

葛野王が草壁皇子の息子の軽皇子、

つまり、持統天皇の孫であり、おそらく彼女も次期天皇にと

想定していると思われるこの皇子を擁立しようとした。

しかし、それに弓削皇子が異議を唱えようとした所、

逆に葛野王から叱責されたそうです。

壬申の乱で敗死した、大友皇子の息子である、

葛野王の苦しい心情も垣間見える、記述です。

やはり、この時代になっても、近江朝側の人物の血を引いている、

葛野王は依然として苦しい立場に置かれていた事が、

想像されます。

 

 

 

このような事や額田王に送った歌などからすると、

弓削皇子の望まない方向に、時代は動いていったようです。

梶川信行氏の指摘によると、この歌に使われている「弓弦葉」

とは、弓削皇子が額田王にこの歌を送った場所が、吉野からである事も

併せて考察すると、吉野は壬申の乱を旗揚げした地であり、

武器としての「弓弦」ではないかとの事です。

つまり、現在の天智系から天武系への皇権移譲は、

所詮武力に基づくものでしかないという、弓削皇子の思いが読み取れる

というのです。だとすれば、天武天皇の息子とはいえ、

必ずしも彼は父親の壬申の乱での武力による皇位継承に、

賛成していなかったという事になります。

また、弓削皇子にとっては、壬申の乱で天武天皇に敗れた

大友皇子は叔父に当たり、また母の大江皇女にとっても兄です。

もしかすると、弓削皇子の母大江皇女も、非業の死を遂げた兄

大友皇子の事を思い、夫天武天皇の、武力による即位に、

賛成していなかったのかもしれません。

また、弓削皇子自身、父と母から天武・天智両方の血を引いており、

血筋からいっても、何ら草壁皇子に劣らない、という気持ちから

皇位継承に関する異議へと繋がったのかもしれません。

弓削皇子は、額田王との二度の贈答歌から何年後かはわかりません

が、かつて自分が即位に反対した、文武天皇の即位の二年後の、

699年の七月に、三十歳前後で死去しました。