文武天皇と石川刀子娘の皇子。

同母の弟に広世がいる。

しかし、彼は現在では、ほとんど忘れられた存在となっている

人物のようです。まず、「皇子」とか「親王」という呼称もつかないため、

すぐに彼が天皇の子だという事も、わかりずらいのでしょう。

彼の母の刀子娘は、紀竃門娘と共に文武天皇元年(697)に、

文武天皇の(ヒン 天皇の妻の位階の一つ。女偏と賓)になっている。

この時、文武天皇の妻には、彼女達より一格上の夫人であった、

藤原不比等の娘の藤原宮子もいた。

 

 

 

 

しかし、文武天皇死後の、和銅六年(713)に、

なぜか突然、刀子娘と竃門娘は、ヒンの位を剥奪されている。

おそらく、宮子の生んだ首皇子の地位を安定させるための、

不比等の差し金だったと考えられる。

こうして皇族の籍を除かれてしまった広成もまた、悲劇の皇子だったと

言える。

こうした経緯のため、彼に関してはわずかな記述しかありませんが、

結局石川広成は、最終的に従五位下に叙せられ、

中級官吏としての一生を終えたようです。

彼が内舎人になっていた頃、すでに異母兄の首皇子は、

聖武天皇として即位していました。

天平十五年頃、彼が内舎人になっていた時、

彼が詠んだ二首が残されています。

 「万葉集 巻第八 秋の雑歌 一六〇一 

めづらしき君が家なるはな薄穂に出づる秋の過ぐらく惜しも」

 

 

 

意味  心惹かれるあなたの家の花薄が、美しい穂を出す秋の、

過ぎていく事が惜しいよ

 

 

 

穏やかで優しい感じの、いい歌だと思います。

文武天皇の皇子として生まれながら、不比等により、

皇族としての身分を失い、 官吏として生きていかざるを得なかった

自分の悲劇的な運命を、彼はあきらめを持って受け入れたのでしょうか?