「万葉の森船岡山」に行ってきました。

奈良の方にも行きたいのですが、諸々の事情で、

なかなか実現しないままです。

この日も、大津京の方にも行きたかったのですが、

他にも行った場所があるなどの事情から、残念ながら

今回はこの場所しか行けませんでした。

市辺駅を出てから、国道の方の阿賀神社の境内の脇道の方を進んだ所に、万葉の森船岡山がありました。かなり広々とした作りになっていました。船岡山の山頂には、蒲生野遊猟の際の、大海人皇子と額田王が交した相聞が刻まれた歌碑があります。そして他には、散歩する道や蒲生野の遊猟の一場面を絵にした、巨大なレリーフや、万葉集の歌の歌碑と合わせて、その詠まれている植物が植えられている、「万葉植物園」があります。

緑が多くて、良い場所だと思いました。

 

 

 

 

中大兄皇子が天智六年に、近江大津宮への遷都を断行したのは、天智二年の八月の白村江での大敗をし、また天智四年の八月に、長門国と筑紫国に城を築かせていること、また天智六年の十一月には、倭国に高安城、そして讃吉国の山田郡の屋嶋城、対馬国には金田城を築いていることなどから、宮都防衛のためということが真っ先に挙げられますが、近江が交通の要衝であったことも、関係しているようです。

藤原氏の家伝である「藤氏家伝」にも、

「近江は「公私往来の道にして、東西二陸の喉なり」

とする記述が見られ、実際に機内と東海道の諸国及び東山道、北陸道の諸国とを結ぶ道は、いずれも近江を通過しています。そして天皇の崩御や謀反の発覚などの危急の折には、三関を警備する固関使が派遣されたが、三関の内、東山道の不破関(美濃)と北陸道の愛発関(越前)は、いずれも近江との境。従って、これらの関所は、天智朝に設置されたとする見方が、有力です。そして大津宮の立地の良さは、琵琶湖と瀬田川の水運によっても支えられています。

湖北には角鹿(福井県敦賀市)の潮を積み出した塩津の存在も知られており、琵琶湖における交通網の発達が窺われます。また、瀬田川を下るとすぐに宇治で、更に宇治川、淀川と下れば、当時の国際的な玄関口であった難波まで一日で行くことも可能。

そして飛鳥へは、逢坂山を越えて山科に入り、後の奈良街道を真っ直ぐに南下しても良いし、木津川を遡ってから、奈良山を越えても良い。

また更に淀川を下って一旦難波に出てから、大和川を遡るルートもある。

そして中大兄皇子は、大津のそうした地理的条件の良さに目を付けたのではないかとも言われてるのです。

そして近江に都が遷された理由としては、

そこが交通の要衝であったということ以外にも、

最近では近江に居住した渡来系氏族との関係を考える説も有力のようです。そして特に中でも、滋賀郡大友郷を本拠地とする大友村主家との関係が重要視されています。

船岡山万葉の森植物園
船岡山万葉の森植物園
万葉の森船岡山レリーフ1
万葉の森船岡山レリーフ1
万葉の森船岡山蒲生野遊猟レリーフ2
万葉の森船岡山蒲生野遊猟レリーフ2
船岡山山頂の蒲生野の相聞歌碑
船岡山山頂の蒲生野の相聞歌碑