父は天武天皇、そして母は「万葉集」きっての優れた歌人の額田王。

そして、夫は壬申の乱で倒れた、悲劇の皇子大友皇子。

もう、これら諸々の要素から、否応なく、その波乱万丈で悲劇的かつ、謎多き彼女の生涯について、いろいろと考察してみたくなってしまう人物です。そして、やはり、彼女を巡る大きな謎の一つである、そしてもしかしたら、自殺ではないのか?ともされる、あまりにも唐突な感じの宮中での急死、その背景についてです。

この点については「高市皇子」の記事で、すでにこれまでにも、私なりの考察は述べてきました。

 

 

 

しかし、ここで改めて、その背景について、考察してみたいと思います。

私はやはり、彼女の死が自殺だったとしたら、おそらく十市皇女を中心に据えて行われる、重要な儀式がまさに始まる直前、彼女が倉梯の上流にある斎宮に出立する直前だったということ。

そして更に、この彼女の衝撃的な死から、ほぼ一年後に、あの吉野の盟約が行われていることが、どうしても気にかかります。

やはり、とても偶然だとは思い難いものを、何かと感じるのです。

 

 

 

やはり、これは十市皇女の、天武天皇や持統天皇を初めとする、宮廷人達に対する、自分の命を賭した、何らかの、強烈かつ、政治性をも含む、アピールだったのではないのか?と思われるのです。

そもそも、私がいつも十市皇女について考える時、疑問が残る部分がある、しかし一般的には、漠然とこういう風に考えている人の方が多いようにも思われることだと思いますが、果たして本当に十市皇女は、壬申の乱前後に、天武天皇・高市皇子側だったのか?という点です。

おそらく、多くの人々が高市皇子が好きなあまりに、あくまでも「万葉集」には、高市皇子側の挽歌が残るのみであり、十市皇女との相聞歌が残されている訳でもなく、彼らの史実上の具体的接点らしきものは、あまりないように見えても、彼らは両想いの仲だったとして、よく想像されやすいのでしょう。

 

 

 

また、やはり、勝者で大きな実績も残している、天武天皇と高市皇子人気も相まって、よけいに、壬申の乱前後の、ほぼ最初から、少なくとも心情的には、十市皇女も、彼ら寄りだったのだろう、と想像されやすいのではないかと思われます。しかし、特に彼女と大友皇子との不仲を、具体的に思わせるような形跡もない以上、そう結論を出してしまうのは、やや早計ではないのでしょうか?また、平安時代になってから成立した「宇治拾遺物語」には、十市皇女と思われる、大友皇子の妻という女性が、鮒の腹に密書を詰めさせて、天武天皇側へ情報を流し、協力していたという逸話があります。

しかし、この「宇治拾遺物語」は、壬申の乱からかなり隔たった時代に書かれた、歴史物語ですし、また、これは梶川信行氏なども「額田王」の中で、指摘しているように、これはおそらく、天武朝を正統とする意図で、挿入された逸話だろうなどという指摘もあります。

そして私も、おそらく、そうであろうと思います。

十市皇女が壬申の乱時に、吉野の天武側と内通していた、つまり彼女が天武天皇と高市皇子側だったというような、確かな根拠はないのです。

 

 

 

そもそも、大友皇子にとっては、十市皇女は叔父の娘でいとこであり、また、身分の低い母親を持つ、自分の皇位継承における弱点を、補強してくれる、またとない存在な訳です。

これらのことから、彼女のことを、それなりに大切にしていたのではないでしょうか?

また、十市皇女の方も、そんな夫の気持ちに応え、それなりに円満な夫婦関係であった可能性も、考えられる訳です。

それに特に、大友皇子に妻が多かった、というような形跡もないですし、

むしろ、父の天智天皇や叔父の天武天皇に比べ、その彼の立場から考えれば、藤原鎌足の娘の耳面刀自のみとは、むしろ、少ない方でしょう。

やはり、これだけでは、彼らが不仲だったとする程の根拠には、ならないように思われます。また、十市皇女は正妃である上に、すでに、一子の葛野王の生母ともなっている訳ですし。

このように、大友皇子の正妃としての、十市皇女の立場も、簡単に揺らぐようなものではなかったと思います。

 

 

 

そして更に、十市皇女についての、これも何か不審を感じる点についてです。なぜか「日本書紀」には、ほんの一行すら、彼女が大友皇子の正妃であったことについての記述が、一切ないのです。

唯一それに触れているのは、大友皇子の子孫だとされる、淡海三船の「懐風藻」のみです。私はこの同時代史料中での、不自然なこの事実の黙殺振りにも、何か重大な意味が隠されているのではないのか?と思えてならないのです。もちろん、やはり、壬申の乱では、よりにもよって父と夫が争い、結局、夫は敗死、そして天武朝と敵対していた、近江朝の大友皇子の正妃という彼女の立場は、最後まで彼女の生涯に、重い影を落とすこととなりました。このように、その彼女の置かれた立場自体が憚られて、一切大友皇子の妻であった事実について、触れられていないことが考えられるでしょう。

しかし、もしかしたら、けして十市皇女は、これまでそのようにも想像されがちである感じの、父の野望による夫の敗死も、おとなしくあきらめ、そして愛する父親のしたことだからと、寛容な許しの気持ちを持って、いつしか受け入れ、ただ耐え忍ぶだけの女性では、なかったのではないか?という気もするのです。

 

 

実は案外大友皇子との夫婦関係も、良かった可能性もあるとすれば、なおさら、この厳しい現実、及び十市皇女と息子との今後の不安な立場は、彼女にとっては、受け入れ難いものであったはずです。

そして少しこれは、私の想像を逞しくし過ぎなのかもしれませんが、

もしかしたら彼女は、夫を死に追いやり、そして自分と息子をこのような状況に追いやった、父天武天皇及び天武朝の人々を、明らかに批判するようなことを、したのではないでしょうか? 

または明確にこのような言動までは取らずとも、現政権に対する恨み言とも取れるようなことを、思わず洩らすこともあったとか。

そういった様子が忌避されての、「日本書紀」での、この不自然な、彼女と近江朝との関わりの抹消、という扱いへと、繋がることになったのではないでしょうか?また、十市皇女の宮中での急死が、抗議のための自殺だったとすれば、彼女が実は大友皇子の正妃だったなんて、よけいに、触れたくないことでしょうし。

やはり、あの斎宮で行なわれる儀式の当日、出立直後の十市皇女の急死が自殺だとすれば、本当に彼女はまさに、自分の強い意思表示を訴えるには、慎重に、最も効果的な状況とタイミングを見計らい、あのような行動に出たのだと言うしかありません。このような事件に遭遇し、宮廷関係者達の、予想される、その衝撃の大きさ、そして自分の行動が、彼らに対して、否応なくアピールされることとなる、その度合いの大きさなど。

 

 

 

天武天皇のための神聖かつ重要な儀式が、このように、その中心的存在とも言える、他ならぬ、天皇の長女である、十市皇女自身の死で汚されることとなった訳ですから。

神事を司る十市氏に育てられた十市皇女が、いかに神事が、何よりも血や死などの穢れを嫌い、重大視するかを、日頃から熟知していた上で、敢えて取った、このような彼女の行動ではないかと思われます。

おそらく、予定されていたこの儀式自体も、改めて「壬申の乱」における天武天皇の勝利の強調。そしてまたその偉大さや治世の安定性をアピールする、政治的な意図が、かなり色濃い儀式であったはずです。

これも自身の皇女の一人である、大伯皇女を斎王に据えた上での、伊勢の斎宮の設立自体が、元々かなり政治性の強いものであったのと同様に。

 

 

 

しかし、十市皇女は夫の死の後、やむを得ず、再び天武天皇の娘という立場に戻り、他の皇子や皇女達のように、父天皇の手足となって、その治世の正統性の確認や政権の維持に協力することにはなったものの、父の治世の盤石さを確認する、倉梯の上流に設えられた斎宮で行なわれる、大規模な儀式にまで、中心的存在として参加させられるのは、その意図を理解すれば理解する程、あまりにも耐え難いと思ったのではないでしょうか。

一方、天武天皇の方は、娘の十市皇女は、当然、父であり、天皇である自分に、協力してくれるはず、いやしてくれて、然るべきだとでも、思っていたのかもしれませんが。肉親であるがゆえの、父天武天皇との、このような激しい相克が、十市皇女には、あったのではないでしょうか。

そしてこの十市皇女の、死を賭した強い意志表明は、成功しました。

ついに、この儀式は十市皇女の死により、中断され、二度と同様の儀式が催されることはありませんでした。

もうこれ以上、父の政治の道具として利用されることは、断固として拒絶する、私にはそんな十市皇女の意志が、感じられるように思うのです。

 

 

 

 

 

どうも、十市皇女というと、その悲劇的な立場及び高市皇子の挽歌、そして有名歌人を母に持ちながらも、自身の歌は一首も残していないということ、そして若くして亡くなっていることなどから、どうしても繊細でおとなしく、ただ、過酷な運命に翻弄されるだけの悲劇の皇女、という風にばかり、捉えられ過ぎてしまう傾向があるような気がします。

しかし、こうして考えていくと、むしろ相当に強いものも、その裡に秘めた女性だったのではないでしょうか。

いとこである、持統天皇程の強さは、持ってはいなかったのかもしれませんが。さすが天武天皇の娘とでも、言うべきでしょうか。

その精神は、どこか受け継いでいる部分が、あったのかもしれません。

また、予想されるこのような、天武天皇との相克の他にも、最初は夫の敵とでも思っていたかもしれない高市皇子とも、壬申の乱以降、接点が増えることにより、徐々に彼を慕わしく思うようになっていったとすれば、そのことが、より、彼女のその苦悩を、深めることとも、なったのかもしれません。

このように、どうも私は、十市皇女を儚げな薄幸の皇女、悲劇の皇女としてだけ捉えることには、飽き足らないものを感じるのです。

 

 

 

また、十市皇女の死について、壬申の乱で、一人だけ生き残ったことに対する罪悪感とかいうのも、あまり腑に落ちないものを感じます。

別に夫を見捨てて逃げた訳ではないし。

そもそも、この時代、夫が滅びる時に、夫と共に自害するなんて考え方も、まだないと思いますし。

それにおそらく、これは夫の大友皇子が、息子のことを頼むと託して、逃したのではないかと思いますし。

 

 

 

 

 

 

また、更に私はやはり、彼女のこの衝撃的な死の、ほぼ一年後に、正式に草壁皇子を後継者とする「吉野の盟約」が行われ、これで完全に天武朝の地盤が確たるものとされたことも、とても単なる偶然としては、片付け難いものを感じるのです。確かに、十市皇女の死自体は、大勢の人々に、大変な衝撃を与え、天武天皇や高市皇子にとっては、大変に辛く悲しい出来事ででもあるのでしょうが。

しかし、これでついに、近江朝のシンボル的な存在と言える存在は、完全にいなくなったのです。

本当の意味での、天武朝の時代、新しい時代の到来といった感も、人々の間には漂っていたのではないでしょうか。