生年不詳―和銅元年(七〇八)。

 

天武天皇と藤原鎌足の娘の氷上娘の皇女。

「万葉集」には、彼女の異母兄に当たる、高市皇子の妃だったと書かれ

ています。

しかし、「日本書紀」には、彼女の死亡年月が記されているのみです。

高市皇子との正式な結婚年月も、わかっていません。

おそらく、高市皇子とは親子くらいの年齢差であったかと思われます。

作家の田辺聖子は、おそらく高市皇子が、

但馬皇女を見初めて結婚したのではないかと推測しています。

 

 

 

 

 

いつの頃からからはわかりませんが、但馬皇女はこれも異母兄弟の

穂積皇子と恋に落ちました。おそらく、彼とは同年代かと思われます。

田辺聖子は、若い但馬皇女には壬申の乱を戦い、

生母の身分が低かったため、皇太子にはなれなかったものの、

異母姉の持統天皇からも、おそらく彼の実直な人柄と能力を評価され

信頼されて、当時太政大臣として重きをなしていた、

彼の人生のそれまでの価値・重みを尊重し、評価する能力はなかったのだろうとしていますが、もしかしたら、そうだったのかもしれません。

但馬皇女も穂積皇子も、壬申の乱を知らない世代でした。

 

 

 

 

また、高市皇子は歌といえば、十市皇女を悼む挽歌三首が

残っているのみです。しかも、その三首も人の心を打つ響きは

あるものの、けして秀歌とは言えません。

また、女性に対して愛を囁く事も苦手な、無骨で無口な男性だったのか

もしれない。そのような、年上の夫に比べ、若くて華やかで歌の才にも恵まれた穂積皇子の方に、いつしか但馬皇女の心は傾いていったのかもしれません。当時太政大臣として朝廷に重きを成していた高市皇子の妃で

あった、但馬皇女と穂積皇子の恋は、やがて世の人々の知る所となって

しまったようです。それでも、この恋を貫こうとする強い意志と情熱が、

但馬皇女の歌からは伝わってきます。

この渦中にいた、三人の心理はわかりませんが、

それぞれが苦悩していたのかもしれません。

 

 

 

 

しかし、もしかしたら田辺聖子の、高市皇子が但馬皇女を見初めて

結婚というのは、ロマンチック過ぎる発想なのかもしれません。

父の天武天皇の命令で、結婚したのかもしれません。

また、高市皇子には、すでに正妃の御名部皇女や他の妻達も

いましたし、それ程但馬皇女は、高市皇子に愛されていなかったのかも

しれません。 また、あの時代、自由な恋愛をする、

積極的な女性達も多かったようですし、

夫にそれ程愛されていないからといって、但馬皇女がくよくよしていたとは、限らないかもしれませんね。むしろ、私は私で素敵な男性と恋愛でもしてやるからいいわくらいに思っていたのかもしれませんね。

こう考えてみると、但馬皇女は夫に愛されない淋しさ・嘆きから

穂積皇子との許されない恋に走った薄幸の女性というより、

奔放で情熱的な女性という見方もでき、面白いですね。

永井路子は、どちらかというとこういう感じで但馬皇女を見ている

感じがします。

 

 

 

 

 

それから、永井路子は、高市皇子と但馬皇女の夫婦関係に関して書いている中で、高市皇子の正妃の御名部皇女について、

但馬皇女よりもっと重要な意味を持つ大もののきさきがいる

と、書いており、これはやはり、正妃の御名部皇女の方が、

但馬皇女よりはるかに大切にされていたと言いたいのでしょうか?

また、永井路子はこの二人の密通について、

但馬皇女の夫である高市皇子は、それほど怒りもしなかったのではないかとしていますが、これには、かなり疑問を感じなくもありません。

「万葉集」には、115の但馬皇女の歌に関連する事情として、

穂積皇子が勅命により、近江の志賀寺に派遣されたとあり、

これはやはり、天武天皇の皇女であり、現太政大臣の妃である

但馬皇女と穂積皇子との密通が露見し、宮廷の一大スキャンダルとなり、

捨て置けなくなった当時の天皇持統天皇が罰するためか、

あるいは穂積皇子に自重を促すために志賀寺に派遣するまでの

事態に発展してしまったと考える方がいいような気もするのですが。

 

 

 

 

 

当然夫である高市皇子も、二人の関係に不快感を示していた事が予想されます。必ずしも妻への愛からではなく、

もしかしたら、体面を傷つけられた怒りであったのかもしれませんが。

但馬皇女の歌の内容から考えても、やはり、皇女の言う、やかましく自分達を非難する人々の中には、夫の高市皇子も含まれていたと考えた方が

いいような気がします。

しかし、その内に当事者の一人であった、但馬皇女の夫高市皇子が

持統天皇十年(696年)の八月十三日に、四十六歳で死去します。

そして、但馬皇女も、和銅元年(708年)の六月に、 おそらく、若くして死去する事になります。

穂積皇子だけが、残されました。

この但馬皇女の死を悼む、穂積皇子の歌が残っています。

 なお、但馬皇女に関しては1988年に 出土した木簡から推測すると、

夫の高市皇子の宮に同居はしていたかもしれませんが、

 

当時の皇女達の名実共に高い地位を示す一例として、

但馬皇女自身の宮があり、夫とは別に、独自の家政機関を持ち、

別個に財産管理を行なわせていたようです。

どうも、但馬皇女というと、早くに母の氷上娘を失い、

また自身もおそらく早世しているらしい事から、年上の夫高市皇子の庇護を受けていた、 儚げな皇女を連想してしまいますが、

実際には皇女自身が、十分な財力を持っていたようですね。

こういう面からも、よけい穂積皇子への恋に走るハードルが低くなってしまった所もあるのでしょうか?

 

万葉集 巻第一 一一四 秋の田の穂向の寄れるかた寄りに君に寄りなな言 痛くありとも

 

 

 

意味  風によって稲穂が片方に靡くように、私も例えどんなに世間で噂されようとも、 ひたすらあなたに寄り添っていよう。

 

 

 

 

 

 

 

「万葉集」巻一  一一五 後れ居て恋ひつつあらずは追ひしかむ道の

隈みに標ゆへわが背

 

 

意味  このまま後に残されて恋慕い続けるよりも、追いかけていこう。

だから道の曲がり角に印を付けておいてください、あなた。

 

 

 

 

「万葉集」巻一  一一六 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川

渡る

 

 

 

意味   あまりにも世間の噂が激しくうるさいので、

今まで生まれて始めて、夜明けの川を渡る事よ。

この、「朝川渡る」というのは、具体的には何を表わしているのか、

諸説あり定かではありません。

いずれにせよ、おそらく、自らの方から恋しい穂積皇子の許へと

但馬皇女が尋ねて行った事を表わしていると思われます。

 

 

いずれも、世間からどんなに激しく批判されようと、

噂されようとも、心はひたすら恋する穂積皇子の許へと向かっている、

但馬皇女の激しく、一途な恋心が伝わってくる三首です。