663年に生誕。686年没。

天武天皇と大田皇女の皇子。

同母姉に伊勢の斎王になった大伯皇女がいる。

妃は、天智天皇と蘇我赤兄の娘の、常陸娘との皇女の山辺皇女。

「懐風藻」の伝記によると、「皇子は、 浄御原帝の長子なり。 状貌魁梧、 器宇峻遠。 幼年にして学を好み、 博覧にして能く文を屬る。 壮に及びて武を好み、 多力にして能く剣を撃つ。 性頗る放蕩にして、 法度に拘れず、 節を降して士を礼(いや)びたまふ。 是れに由(よ)りて人多く附託す。 時に新羅僧行心といふもの有り。 天文卜筮を解(し)る。 皇子に詔げて曰はく、「太子の骨法、 是れ人臣の相にあらず、 此れを以ちて久しく下位に在らば、 恐るらくは身を全くせざらむ」といふ。 よりて逆謀を進む。 此の"言圭"誤に迷い、 遂に不軌を図らす。 嗚呼惜しき哉。 その良才を蘊(つつ)みて、 忠孝を以ちて身を保たず、 此の奸豎に近づきて、 卒(つい)に戮辱を以ちて自らを終ふ。 古人の交遊を慎みし意(こころ)、 よりて以(おもい)みれば深き哉。 時に年二十四。」

 

 

 

その身体付きや容貌は大きくて逞しく、そして度量が大きく、奥の深い人物であった。幼い頃より学問を好み、幅広く読書し、大変に豊富な知識を持ち、また巧みに文章を書いた。 成長してからは武芸を愛好し、力が強く、剣を巧みに扱った。 その気質は大変に自由奔放、規則に縛られず、また高い身分でありながらへり下り人士達を厚く遇した。これにより、大勢の人々が皇子に従った。

 

このように、大津皇子は文武に優れ、豪放な性格だったという。

謀反の疑いにより、処刑された悲劇の皇子として有名。

また、姉の大伯皇女の悲痛な挽歌も、有名である。

石川郎女との間に、相聞の歌がある。

 

 

 

なお、親友であった大津皇子を裏切り密告したとされる川島皇子だが、

これも「懐風藻」の彼の伝記によると、温厚で上品で度量の大きい人物であったという。

「皇子は、 淡海帝の第二子なり。 志懐温裕、 局量弘雅。 始め大津皇子と莫逆の契を為しつ。 津の逆を謀るに及びて、 島則(すなわ)ち変を告ぐ。 朝廷その忠正を嘉(よ)みすれど、 朋友その才情を薄みす。 議する者未だ厚薄を詳(つび)らかにせず。 しかすがに余以為(おも)へらく、 私好を忘れて公に奉ずることは、 忠臣の雅事、 君親に背きて交を厚くすることは、 悖徳の流(たぐい)ぞと。 但し未だ争友の益と盡くさずして、 その塗炭に陥るることは、 余も亦疑ふ。 位浄大参に終ふ。 時に年三十五。」

川島皇子は温厚でのどかで優雅な人柄であり、真面目でその度量も大きかった。初め大津皇子とは、莫逆の友の誓いを交わしていた。

この「莫逆の契り」とは、おそらく中国の「莫逆の友」から来ていると見られ、または「水魚の友」などとも呼ばれる、大変に深い友情を表わしているものです。また、その伝記の中で、彼ら二人はいずれもその度量の大きさが触れられており、やはり彼らはお互いにその人格に、共鳴するものが、あったのではないでしょうか?しかし、このように、その人柄が称えられているとはいえ、その伝記の大半は、友の大津皇子の密告のことで占められており、このことがやはり彼の生涯に、大きな影を落としてしまったことが窺われます。三十五歳の若さで死去してしまったのも、友を裏切ってしまったことが、彼を生涯苦しめ続け、その苦悩の結果なのではないかというように、私には思われます。密告という、おそらく上品であったという本来の彼の気質にそぐわないと思われる行動が、彼の心をここまで苦しめる結果になったのでしょうか?

やはり、親友でありながら、大津皇子を裏切り、密告するなんて!と、大津皇子好きな人達には嫌われやすく、各フィクションの中では否定的に描かれがちな感じですが。

 

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「万葉集」巻第二 一〇七   あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに

 

 

 

意味 あしひきの山の雫に、妹を待つとて私は立ち続けて濡れた事だ。

 

 

 

一〇九 大船の津守が占に告らむとはまさしに知りてわが二人寝し

 

 

 

意味 大船の泊まる津守が占いに現わすだろう事を、

まさしく知りながら私は二人で寝た事だ。